2009.06.15 Monday
日常が研鑽材料
われわれ臨床心理士は、研修会やスーパービジョン、自身がカウンセリングをうける訓練分析、
などなど日々研鑽をしています。
資格を取ってからも、五年ごとの更新制になっており、研修のポイントが一定の基準以上でなければ、
資格を取り消されてしまうのです。
専門家としての研鑽は時間とお金をさいて、臨床心理士として仕事をする間は生涯行われていくものです。
ただ、私が常々よく思うのは、目に見える学習だけが、われわれ臨床家の研鑽材料ではなく、日常の人間関係そのものがすべて学習材料だと思うのです。
つまり、一番難しいのは、自分自身であると。
自分自身とその周囲の人との人間関係がもっとも貴重な研鑽材料であると言っても過言ではないと思うのです。
我々が心の専門家だというならば、臨床心理士の家族関係は皆良好で家庭内別居や離婚なんてありえなくて、何か問題が起きようものならすぐに解決して・・・、なんて・・・。
なんのなんの、プライベートは色々ありの、ありきたりな日常があるわけです。
もちろん、社会的役割としての責は大きく、倫理規定もありますし常識範囲を超える逸脱行為は論外ですが。
ありきたりの日常の中に、精神分析的視点でみる転移などもふんだんに盛り込まれ、あらゆる選択の中にその人の個性があり、親密な他者とどのような関係を築くかなどは、原点の親子関係が大なり小なり反映されることは想像に難くありません。
確かに、臨床心理士が行う心理相談業務の進め方は理論や研鑽・訓練からくる技術です。
そのことに何ら異論はないのですが、技術者として人を見て理論で人を判断するという域を出た所に、
言葉では言い表せない無数のメッセージが存在し、(双方の無意識をやり取りするといっても良いかも知れませんが)その中で、動いてくる、生まれてくるものがあると思うのです。
上記の様なことを言葉にすると、共感とか理解とか耳慣れた言葉になってしまうのかも知れません。
クライエントの言葉に真に耳を傾けるとは、自分自身に真に耳を傾けることと同義で、真に自分に耳を傾けてもなかなか私という人は一筋縄ではいかないと言うことを実感し、苦悩することが、聴けるようになる第一歩であり、私にとっては、いつも確かめていたい原点なのです。
自分自身をいかに自然体で生き生きと生かし、喜怒哀楽を感じ、受け入れ、毎日を精一杯生きるか。
しんどいなぁ〜〜と、情けなく口にする自分を良い状態に常にもどしながら、どうコーディネートしていくか。
しんどいなぁ〜〜、なんて言えている自分がいかに幸せか。
知っています。 (笑)
やりたいことを精一杯やっていて、しんどいのですから。 この上ないです。
日常の自分を全く離れてしまった所には、心理臨床は存在するはずがないというのが、私の思いです。
ご精読、ありがとうございました。