ひなぎく心理ルームでは臨床心理学の立場から、いろいろな心の「悩み」や「葛藤」、「違和感」などに対してお話を充分にお聴きし、共に見つめ、整理しながらカウンセリングを進めていきます。
「知っていること」の障り

みなさんは自分が何をどれくらい知っていると思われますか?

これは愚問だと我ながら思います。
もし自信をもって答えるなら、それは知るべきことがこれくらいだと推量できているとの感覚(万能感)が存在することを証明するに過ぎません。ごくごく限定的な問い(範囲)をはっきりさせた上での答えなら考える余地はあるかもしれませんが。

限定された範囲であっても、自分は「知っている」と思うことでの安心や慢心や自負、さまざまな思いがそこにはあることでしょう。本当に「知っている」ということはまだ知らないことが山ほどあることも同時に知っているこころでもあるでしょうし、そうでないなら、それは「知らない」ということに耐えられないがゆえの「知っている」であり、成長やその変化を妨げる障りとなり、時としてこころを偏狭にすることでしょう。

私は小さい頃、母親に理不尽と思うことについて意見した時、「大人はいいの!」という答えを何度か聞いた覚えがあります。
昨今のように情報があふれる社会ではありませんでしたので、「大人の世界」というものに対する畏れがありました。
そしてまた大人になったら、自分で選択できる自由があると、その行く末に「大人になったら・・・」との思いを持ったものでした。
それは炭酸のジュースを飲んでみたいだとか、ハムをたっぷり食べてみたい(身体にいいものをとの母の考えであまりたくさんありつけなかったものたちです)だとか、そのようなかわいらしいものですが、それは大人になって行くことの原動力にもなり、そうこうする中で欲求不満に対する耐性も付き、社会での職業人としての適応力も備わる一助ともなるのだと思います。

学校という現場で今の子どもたちを見ていると、情報に圧倒されて、そのことでの傷つきをなんとか癒すために、さらに情報を貪り、さらに傷つき、最後には躁的・うつ的に防衛するしかないような光景を目にすることがあります。
時期尚早に知ってしまうことの障りはことさら深刻に感じます。

そして若年者にとっての「知ってる」という思いは、大人社会へ進んで行くことの意味を奪ってしまうかのようです。

どんどん内容は深まって行きそうですが、ここで浮上します。

子どもたちという視点で「知っている」ということについての障りを考えるならば、私はひとりの大人として、目を輝かせて知らないことに好奇心を持ち、歩んでいくことの楽しさや喜びを感じさせられる人になりたい。

そうありたいです。

でも難しい〜〜(笑)  苦もまた友達です。

ご精読ありがとうございました。


 

| 私の思考 | 21:17 | comments(0) | trackbacks(0)
かげぐち
陰口=「その人のいないところで言う悪口」(スーパー大辞林)
過日、新聞の書籍の見出しかなにかで、「陰口は大きな声でいいなさい」というような一文がありました。
何となく脳裏に残っていて、ふっと思い立ち書きます。

私は誰かを相手に陰口を言うか言わないか?と考えた場合に明らかに言っているひとです。
私の考えで腑に落ちないことには自ずと反論というか別の見解があるわけで、そのことを言葉にするとそれは暗に陰口ということになってしまうのかもしれません。
陰口を言う私であるということでも何らかまわないのですが、陰口という言葉の印象から私は、「当の本人には内緒でとか、ばれないようにぐちぐちと文句・悪口を言う」という思いがあり、それなら私は少し違うのではないかという異議申し立てをしたくなった次第です。

私が陰口を言う人間だ!!と、誰かに言われたわけでもありませんので、あくまで私の頭のなかでの論争であります。(笑)
私がいうことはほとんどいつも当の本人に聞いてもらってもいいと、むしろ聞いてほしいくらいだ!!と思っていることが多いようにおもいます。だけれども相手が聞きたくないか、聞いてもらうことが必ずしも事態を良くしないだろうと思うときにその内容を共有できる人との間ですませるということのようです。
このブログを見られる可能性のある方などがここでいう陰口を言われているかもしれないと思われる必要はありません。
大体においてわたしが思い描く人がこのブログを見て下さってるとはおもいませんので。

と、なんだかぐちぐちムードになってきそうな感じは避けたいので(笑)、ここら辺であっさりと退散いたします。
すみません。多忙ゆえご無沙汰しておりました。


 
| 私の思考 | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0)
いいとこどり
人は皆、私を含めいいとこどりをしたい気持ちを大なり小なり持っていることに否定の余地はありません。
このような思いを改めて意識することも日常ではないことでしょう。
しかし時としてこのことが社会生活のなかで影響を及ぼしている事態があることもまた事実としてあります。またその影響が大きく出ている人ほど本人の自覚は皆無であるかのように見受けられます。

おいしいものが食べられて、欲しいものが手に入って、苦難はあらゆる手段をありったけ駆使しなるべく速やかに取り去るべしと動きます。それは決して悪いことではありませんし、私もそのように動いている内の一人です。

ただ厄介なことに一見解決されたかに見えても「こころのこと」だけは納得するまでどこかに隠されて(隠れて)居つづけ、折にふれその存在を知らせるかのように「今」に影響を与える形で顔を覗かせます。

例えば最近思うことがあったからゆえですが、「先生」と呼ばれる職業のどんなところに何を意識してそうなろう、そうあろうとしているのでしょうか?
先生としてあがめられたい満足したい等の自分の思いが前にあるのか、それとも自分にその責が果たせるのだろうかとの責任感に類する思いが前にあるのか、そのスタート地点で随分と様相は違ってくるのではと思います。一概に言えることではありませんが、この時代はややもすると前者の比重を多くしやすいのだろうと思います。
そして、前者には社会での叱責が通用しないどころか、叱責するものを「悪いもの」と決めこみ少し受け入れてくれたものを「良いもの」とし、双方を完全に分割して認識しようとするようです。一人の対象がその状況、自分の行っている事に照らしていい反応や叱責の双方が与えられるという事が想像できないかのようです。

そろそろ重苦しい愚痴に近い内容を浴びせれられていることのご負担を感じさせているやもしれません。

新しく始まったNHK連続テレビ小説「ごちそうさん」だったでしょか?(笑)
<第12話>主人公の女子は食べることにしか興味のない、つまり直接的に即、自分を満たしてくれるものが大好きという御嬢さん。そこの家に大学生の青年が下宿人としてあらわれ交友が展開しているのですが、この青年が淡々とはしているもののこの御嬢さんの事について真摯に考えを漂わせる(といってもその御嬢さんから話された内容についての興味でその人全体にではないと思われますが)側面と、客観的にこの御嬢さんのしていることを言語化し指摘していくという側面を併せ持ち、次々に指摘されるので御嬢さんはどこか腹を立てながら、しかし理解を示されるのでなにやら心惹かれていくという展開のようです。
今回の青年にはいつもの何か無神経で頓着なく言葉をはいているというだけではないような繊細さを若干含ませているようです。
主人公が何か言われて心波立つような場面はドラマにはありがちなことなのでしょうが、個人のこころの動きを含めて扱い、それを指摘するという事を色濃く感じさせるなぁと思いました。

話を戻して混ぜますと、いいとこどりのそもそもその起源として、特に母子関係の中で親密に向き合って愛情も苦言も双方をたっぷり行き来させてきたのかな?と。安直に満足するものをあたえてその直接的な関わりが不足していたのではないのかな?と思ってみたりするのです。
かりにそうであっても不足などには目もくれず、かりそめであってもしてきた満足を求める気持ちだけは一人前であり、そのことを維持し、守ろうとするこころの動きが当たり前になりすぎていることがありはしないかなと。

かりにそうであるなら、今、そんなことを守るとか守らないとか言っている場合ではない事態が起こっているのが日本であり、いいとこどりなんてするどころか、傷みの中から学び、気づき、立ち上がり…という事を繰り返し、生きるという事の原点に立ち返ることが見直されていいのではないか? 社会は個人の集合からなりたっているわけですから個々人がしっかりと自身を見つめる力をつけることを問うているドラマ?なのではと。視聴率がどうなっていくのかはわかりませんが、そんなことをふっと思ったりしました。(何かにかこつけて私の考えを乗せようとしますので、少々こじつけがましくなりますが(笑))

いいとこどりからは何も生まれないし育たないというのが私の思いです。

長くなりました。
突然終わるようなことかもしれませんが、悪しからずです。

ご精読ありがとうございました。


 
| 私の思考 | 18:47 | comments(0) | trackbacks(0)
転移・逆転移・転移解釈について思うこと

昨年の5月11日に記載した「転移・逆転移・中立性について思うこと」(カテゴリー<私の思考>で見てもらえると1ページ目です)が、数ある記事の中で常にアクセス数が多く、そのことを思うと削除することも考えましたが、ひとまず新たに書くことにしました。(2013年1月、この記事については非公開にしております。悪しからずです。)


削除というのは、私自身の向き合えなさがどこか半分茶化しているような文章の感じに見て取れ、その内容もすべてではありませんが、ある部分においては今の私にとっては、痛く恥ずかしい感じがしているからです。
それも成長過程の私ゆえ、それはそれでありのまま・・・と考えます。

が、このような自己開示をしながらの仕事・・とした私の考えが、今は、変化したということも同時にお伝えしなければなりません。

私は転移や逆転移を認識はしながら仕事をしていましたが、少なくとも転移を利用しての精神分析的なやり方を行ってはいませんでした。
転移解釈を軸として、自身の身をその転移の器として機能させることはしていませんでした。

そのような形でしか成しえないことの奥行きと壮大さにまったく気が付いていませんでした。
もちろん、今でもまだまだ知りえないことだらけであることは言うまでもありません。

私自身が精神分析を体験することによって、たった1回、初回の分析体験で私の今までの認識が覆るには充分でした。
私がそう感じたのは、私がそのようなものを無意識下で求め続けていたからにほかなりません。
衝撃でした。

今は、自己開示(もちろんクライエントの話に沿ったものですが)について、実感として不要と感じています。
乱暴な言い方をすると、たいしてクライエントの役にも立たず、自己も開示せずふんぞり返っていて何なのか?せめて、クライエントの役に立つ形の精緻された自己開示ならいいではないか!と、思っていました。

繰り返しますが、タイミングやその意味をとらえながらの、あくまでも精緻された自己開示です。
私にとっては、このことはきっとたやすかったのです。
研鑽もしてきましたし、一定のレベルの仕事は出来ていたであろうことは、当ルームが、7年存続しているということが証明してくれるものであるとも。

しかし、私自身が立ち入れなかった私自身の無意識の領域が私の手の中に入り始めたとき、同時に私の求めていた私自身の臨床のありようがはっきりとつかめたのです。

頭の先から爪の先まで、クライエントのために存在するということが、どういうことなのかということが。

こうやって、自身の考えを述べていくことをしている私は、引き続き自己開示をしているに他ならないと自覚しております。

ただ、今まで公に出してきた以上、それなりの形をもって整理していきたいという思いがあり、恥ずかしながら表現しております。

このブログは、当ルームを知っていただくための「広報」として位置付けていることも事実ですし、その点においては、アクセスの期待できる題材や、スケジュールなどは、細々と当面は存続する予定です。

お年賀でも、ブログを見ています・・・と、このブログの中で、当ルームに思いを寄せてくださる方には本当に心苦しい限りですが・・・。


転移・逆転移を感じながら、転移解釈をするという精神分析のなんたるかを、実感として感じている私がいます。もちろん私なりにですが。

お題にはしたものの、実感しているとしか言いようがないのは稚拙で申し訳ありませんが、かりに言葉にできたとしても、私の私的な感情は(公には)私の中にとどめるべきものだと思っています。
今はそう思うようになりました。



まして専門的なことを流暢にかたる知識はまだありません。



ご精読、ありがとうございました。





| 私の思考 | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0)
孤独との付き合い方

皆とつながっているけれど、誰ともつながっていない・・・。

いや、そうではない、しっかりつながっているじゃない。

決して、孤立はしていない。


でも時々、こころの隙間を縫って、孤独感・・・、さみしさといってもいいかな、そんなものがふわぁっと、
あがってきます。
ふわぁっとというと、煙のように立ち込める感じですが、でもなにか細長くて、少しツンツンと、
つついてくるような感じでもあります。

孤独を感じない方法は、人によっていろいろなのだろうと思います。

孤独など感じたことがない、という人もいるかもしれません。
しかしこれは意識的には感じたことがないということであって、一人で生れて一人で死ぬということを考えると、孤独感はいつも自分のどこかにあると考える方が自然に思えます。


年齢を重ね、人生の先が見え、初めて孤独を感じて一気に絶望感にたどり着いてしまったりすると、
それこそ絶望ですね。 (笑) 笑いごとではありませんが。


17年になる愛猫の「死」を想像して、その時に備える私も、想像できるさみしさには懸命に対処(自己防衛)
しようとしているのだと思います。

誰しも一人だからこそ、人とつながりたいという思いが出てくる。


でもエネルギーを消耗するだけの上っ面の付き合いは、さらに孤独感を増長させ、生命の活力をも奪ってしまう感があります。

早い時期から、私はOLさんにはなれないと確信していました。
つまり、大人数の中で他者の顔色に振り回され、気を使い、エネルギーを消耗し、つきていくことが簡単に想像できていましたから。

今、この仕事にたどり着き本当に良かったと思っています。

望む、望まないにかかわらず、自分自身の中の孤独感に大なり小なり突き動かされている方々と出逢っていくこの仕事は、私自身の孤独感を無視することが出来ない反面、それとどう対峙するか、対峙に留まらず、それをいかに許容し、自身の一部として、そこにあることを許せるか・・・におのずと取り組む・・・。

難しい・・・・。


っていうか、(孤独感)  いらないですよね。  (大笑)


そう言ってしまえば、身も蓋もありませんが、あるからしょうがないのですが・・・。


でも、ちょっとすっきりしました。 (笑)


「孤独との付き合い方」なんて、分かった風に、すでに導きだしている答えをつらつらと記載するのではと期待された方には申し訳ありませんが、答えがあって書き始めたわけではなく、私の心の中に浮かんできたお題を契機として、ここで作業をさせていただいた感じです。

公開カウンセリングかよ!!  (笑)


それで、不思議とすっきりしたのですよ。


はい。  (笑)


書いた責任上、解説させていただくとすれば、半ばもやもやと書き始め、最近少し孤独感を意識している私に出会い、あーでもないこーでもないと表現し、現在の仕事という自分の立ち位置を確認し、なら生きてていいかなとなり、嫌だねーと笑い飛ばし、再度自分のここで表現したプロセスを書いたことで、ひとまとまりになった感じです。

こうやって、自分の心のありようをぐるっとめぐる作業がまさしくカウンセリングの場面だと思います。


と、宣伝もしっかり最後に行い、(笑) おあとがよろしいようで。 (私だけ!?(笑))


最後にもう一つ、孤独感はみんなにあって、だけど表現して、分かち合ってもらえたら薄らぐ、
そしてなんとか持ちこたえられるかも、ということが感じられた気がしました。



ありがとうございました。 (笑)






| 私の思考 | 19:48 | comments(0) | trackbacks(0)
理論と実践(臨床)をつなぐ感性
私は身体のことに対する医学的処置と、心の問題(課題)に対する臨床心理士の取り組みを対比させてクライエントに伝えることをよくしますし、私自身の思考の中でも、置き換えて考えるとどうなるかということを、よくします。

医学でもイメージによく使うのは外科の領域がおおいかな。

理論を学習することは、手術で使う道具をそろえていくことだと思いますし、日々研鑽を重ねていくことは、その道具を常に良い状態で使用できるようにメンテナンスすることのように思います。


現場の臨床、つまり面接場面は手術の本番です。


しかし、毎回が手術というわけではなく、どこをどのように処置していけばいいかを、時間をかけてみていくという側面が大半です。
そして、クライエントからの何らかのゴーサインが出た時にメスを入れる場合もありますし、いろいろなクライエントへの質問、情報収集から、ほぼ間違いなく、ここにメスを入れてもいいだろうとの推測がたてば、流れの中で執刀にいたることもあります。

盲腸の手術もあれば、心臓や脳などの難事な手術まで様々です。
こちらが執刀するまでもなく、痛いのに自分で執刀して、膿まで出して来た人には、消毒して縫ってあげるだけで、大感謝されたりもします。

自分は今、どのあたりの手術までこなせるのか、知らなければなりませんし、心理を扱うのも同じことだと思っています。


理論を学び、メスを磨き、切れ味抜群で、てんで的外れなところにメスを入れたら、それは大変なことです。


我々は心に分け入るメスを、持っていると思うのです。


だから、治せる(役に立てる)のです。


クライエントの状態をいい方向に持っていくために役に立つ理論と、実際のクライエントをつなげる間の物は何かといえば、それはセラピスト(臨床心理士)の感性(そのことを伝える技術も含めた)に他ならないと思うのです。

その感性が機能しないと、いくら理論を知っていてもつながらないだろうと。

盲腸になれば、手術して取ってもらうと治る、と素人でも知っています。
しかし、この状態が盲腸であると判断して、それに対してしかるべき処置を出来る専門家が医師なわけです。

医師でも、これは盲腸だということが判断できず、ただの腹痛ですねとしていると、適切な仕事にはなっていないことになります。


この辺で止めておかないと、自分で自分の首を絞めていくことが感じられてきました。 (笑)



あくまで、自戒をこめての文章であります。



まして、同業者にメス(牙)を向ける物ではさらさらありません。 (笑)



はい。  (笑)








| 私の思考 | 19:40 | comments(0) | trackbacks(0)
自分に向き合うこと
自分に向き合うこと・・・と聞いて、皆さまはどのような思いを持たれますか?
当たり前のことですが、ホントにさまざまな答えがあると思います。

それでも、このブログを覗いてくださる方々は、自分に向き合うことについて、大なり小なり関心が御有りの方なのではないかと、推測いたします。

自分に向き合うことをしたいと思ってするのと、向き合わざるを得ない状況から逃げずに、向き合いたいとは思わないけどそうする・・・というのとでは、状況の違いはあるものの、本質的には同じに思います。

ここは、心理ルームで、私は臨床心理士で、この「自分に向き合うこと」という作業をまさしくお手伝いする仕事なのですが、この作業の崇高さをいつも感じながら仕事をしています。

向き合った結果として、あまり神経質に自分に向き合わないこと・・・なんて気づきに、いきつくこともあるかもしれませんが、それは向き合ったからこそ出てきた気づきな訳です。

生きずらさがあっても、それを改善する方向の動きをせず、しのいで生きていくこともまた一つでしょうし、
周りが悪いのだ・・・と言って、愚痴って生きていくのも一つでしょう。

何が良い、悪いというものではなく、そのような人生の選択を自分が行っているという自覚があれば、良いのではと、私は思っています。
なぜなら、そのような選択を自分が行っているという自覚がその瞬間、瞬間にあれば、基本的に大きく自分の人生全般において悔いることなく進めるのではと考えているからです。


人は、少なくとも大人になれば、ある程度の自分の生き方・志向などの選択ができる、変更も可能であると思っていますので、そのような思いを真摯に持つ方のお手伝いができるこの仕事にとてもやりがいと誇りを持っています。

生き方のスタイルを変えていくということは、簡単なことではありません。
ですので、私たち臨床心理士の出番もあるわけですが、そのお伴をさせていただき、一人の人の人生の彩が変化する瞬間に立ち会えることの喜びはそれはそれは言うに言えないほどです。


自分に向き合うことは、一側面を見ると、自分の内面の孤独に出会うことと言えるかも知れないなぁと、私的には思う今日この頃ですが、だから人とかかわりたいという思いが出で来るのも、また納得です。


生きてまいりましょう。 


決して、私が危ういわけではございません。 (笑)



今日の京都は雨・雨・雨・・・。



それでも足しげく来室してくださる方々に頭が下がります。



梅雨明けが待ちどうしくなってきました。



それではこれにて。





| 私の思考 | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0)
無意識への信頼
臨床心理士として、クライエントと向き合うとき、われわれは様々な理論背景を持ち、専門家として相対します。

私は、自分の無意識、そしてクライエントの無意識にとても信頼を置いているように感じています。
クライエントを目の前にして動いてくる気持がありますし、聴きたいことが出て来ますし、クライエントもまた同様ではないかと思います。

よって、今日はこのことを聴いてみようだとか、こんな話をしようなどと前もって準備することはありません。
(スーパービジョンを受けての動きはあるのではと思いますが)

クライエントの話を覚えておかなくてはと意識したこともありませんし、忘れてしまっていることも不思議とほとんどありません。
私は決して記憶力が良い方ではないのですが、物語は自然に入っているようです。

ここで何を述べたいかと言いますと、カウンセリングに訪れる方の解決策・答えは、クライエントの無意識内にあると言うことです。

その答えが意識されるようになるのをお手伝いするのだと思っています。

私は 「バージョンアップ」 という言葉を使って、「生き方のすべ」をクライエントと一緒に考えてプラスすることはありますが、どのようなバージョンアップを望むのかもそのベースとなる材料はクライエントの無意識にあると思っています。

でないと、そこから紡ぎ出したものでないと、クライエントの自信・自立につながる役には立たないと思うからです。

じゃぁ、私は何をするのか?

クライエントの真意に近い場所をノックしていくことなのです。
ノックするとは、質問していくこと・感じたことを伝えていくことです。

答えが分かっている(意識できている)なら、カウンセリングなんか受けに来る必要はないわけですし、だからといって自分の感覚に遠いことをいくら言われたり、質問されたりしても首をかしげることになるのです。


質問したくなったことを質問します。

クライエントは、しっかりと応えてくれます。


「 そうじゃないです! 」 と。


いつも、私は感心します。


何か人に聴かれたり、言われたりしたとき、何が自分にとって正解かは意識できなくても(分かってなくても)、自分の気持ちと離れたことを言われると「違う気がする・・・」と、分かるのです。


逆もしかりです。


クライエントの真意に近ければ、

「 そうかもしれません・・・ 」 と、返事が返ってくるのです。

時には、 「 そうです! 」 と。



上記のようにクライエントが表現したにもかかわらず、カウンセリングが中断するなら、その言葉は本意ではなかったのかも知れません。
しかし、少なくとも私の経験の中では、クライエントに対する理解が、私とクライエント双方に深まっていっているように思えます。



うまくこころの扉をノックできるように研鑽するのみです。



私が先生で、答えを知っているのではないのです。



クライエントのこころの扉付近をノックして、そこにある物を分かち合うことが2人にとって大切なこととなります。



答えは2人の無意識が知っています。

そしてやがて2人の意識が喜びます。

それは、人生においての格別な時となるのです。


 おわり。  (ドダンっと、突然の終わりに思ったらごめんなさいね(笑))



 おまけ。 (笑)

このまえ行った、「曼殊院」 に竹林がありました。

                  
            

とっても入ってみたかったのですが・・・・、
              
「 ここは曼殊院門跡所有地です。無断で山に入ったり、タケノコをとってはいけない 」          
この様に書いてあったのであきらめました。 (笑)   タケノコとれるんだ・・・。(笑)

じ〜っと立っていると、自分の陰がおもしろいことに気づいて、撮ってみることで、竹林に入れない残念さを帳消しにしました。  (笑)
       
       

カバンの加減でお腹が大きいようですが、カバンです。 (笑)



それではこれにて。








| 私の思考 | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0)
愛おしいものにかける言葉
皆さんにとって愛おしいものってなんですか?

愛おしいとは、なかなか深くあたたかく柔らかい響きでありますが。 (笑)

その思いは人それぞれ様々な形で、感じられ存在していることと思います。

それは時として継続的なものではなく、その一瞬の気持だったりすることもあるでしょうし、緩やかに穏やかに常に流れているような物だったりするかも知れません。

私には、もうかれこれ17年になる愛猫がおります。
「ねこ」 という特性故に、手の出し方の向きを間違えたり、気持ちよさが一定のレベルを超えると、恩を仇で返されるがごとくにぴしゃっ!と、手が出てきたりするのですが、それでも私にとっては愛おしい存在であることに何ら変わりはありません。(笑)

その愛猫に私がいつもどのような言葉をかけているか?

「 みゃーちゃんは、良い子さんだね。ちゃーちゃん(私のこと、すみません(笑))は知ってるよ。 」

です。

私は、みゃーちゃんがいい子であることを知っているのです。



私はこの言葉を繰り返し発している中で、ある時ふっと、思いました、これは私自身が、こころの奥深くでもっとも欲している言葉ではないかと。


専門的な表現をするなら承認欲求と言ってもいいのかも知れません。


私は母に、見て欲しくて、見て欲しくて、認めて欲しくて、認めて欲しくて、「いい子だね」と、言って欲しくて、
生きていたように思います。

 
物言わぬ動物などには特に、情が一方的に入り、そのものにかける言葉は本当は自分自身がかけて欲しい言葉だったりするのではと思います。

自分を虐げている人がいるとしたら、虐げる言葉をなげかけることが起こってくるのかも知れません。


 
あなたはどんな言葉をかけていますか?



いたわりの言葉、愛情一杯の言葉だったら、自分も相手も満たされますね。



そうあることを願っています。



にっこり。にっこり。








| 私の思考 | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0)
打って出る
6日、日曜日の私設心理相談研修会から早一週間が経とうとしておりますが、信田さよ子先生のお話の中で
ビビビッと、刺激を受けたことについて、書かせていただきたく思います。

それは、このタイトルにある 「打って出る」 という言葉でした。


色々な話をされている最後に、「打って出ないとー!」と、さらっと発言されました。

さらっと発言されたのですが、今後の臨床心理士の未来を見据えて考えると、とても重い言葉に聞こえました。
 重い言葉だったのではと想像します。

質問1つ、働きかけ1つをとって考えてみても、個人面接での心理的動き、グループなどの集団の動き(力動)、組織の中での働きかけ、多機関との連携時の働きかけなど、場面によってその方法や対象は多少変わってくるとは思いますが、なにがしかの働きかけを、それも心理的側面を見据えてその個人もしくは集団の力動をどう変化させていくかという視点で働きかけていくという点においては共通で、大なり小なり打って出るわけです。


もちろん、何もしないという形でいることで意味をなそうとすることも1つのやり方(療法)としてはあるわけですが、それも見立てたうえで、戦略的に行われているのであります。


カウンセリング・・・、話をただ聴いてもらうだけ?


そんなイメージを持たれる方がほとんどといっても過言ではないのではないでしょうか?

もちろん話は聴きます。

ただ、 ただ聴いているのではなくて、なにがしかを知っていきたい意図を持って聴いており、何を知りたいかは、どのような理論(戦略でもいい)をもっているか、何を明確にしょうとしているかによって違ってきます。
もちろん、我々が知って終わりではなく、クライエントやその集団・組織に役に立つところまでの変化を実感を持って感じてもらう所を目指すわけです。

そこに専門性が介在せず、もしも、ただ聴いているだけなら、何だか分からないけど・・・、どうなんだろう・・・? となり、少なくとも高いお金を払うことはないのではないでしょうか。

「打って出る」 とは、なかなか大胆なイメージを持つ言葉のように聞こえますが、私が想像するに、それはそれは細やかな配慮と繊細さと、専門性に支えられた究極の技のなせる業なのだと思います。(笑)

大きな失敗は許されませんし、 
当たり障りのないことに、専門性は存在しません。


外科医がメスを持って執刀するならば、専門性と技術がいるわけです。

ただ、初期の盲腸の手術で数仟燭切開してしまった・・・は、素人が想像するにもあるでしょう。

しかし熟練していき、難易度の高い手術も経験する中で、その人の命を間近に感じながら執刀する、まさしく打って出るわけです。

そうしないと、事態は変化しないのです。



心も同じことなのです。



目に見えない心を対象にしているだけに、当たり障りのないことでは、臨床心理士の仕事を理解していってもらうのは難しいのだと感じます。

そういった点では、学校現場や企業に入って異業種の臨床心理士が仕事をすることや、事件・事故・犯罪などによる個人や集団を対象として、心理的ダメージをケアするために活動する「緊急支援」などは、われわれの専門性を分かりやすく発揮する活動なのだと感じて、日々頑張っております。

長くなりました。

では、この辺で失礼致します。


ご精読ありがとうございました。





| 私の思考 | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0)
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